川野目亭南天さんの東方落語に、大笑いし、そして夫婦でグズグズ泣いた。

落語を聴いて、まさかこんなに泣くことになるとは思いませんでした。
今日の記事は、たぶん他の人にはわかってもらえないかもしれないけれど、独り言を書きます。

仙台市広陵中で開かれた「東方落語」、女性落語家の川野目亭南天さん(Wikipedia)の落語を聴きにいきました。
ぎっくり腰気味で気がすすまなかったが、大笑いして気分転換しようと、妻と。

主催が、中学校区の地域ぐるみ青少年健全育成連絡協議会ということで、無料。
参加者は100人くらい。
高齢者が多いなあ、そして、部活に来てジャージを来た中学生も30人くらいか。
中学校の教頭先生の司会でまじめにスタート。

南天さん登場し、まずは、東方落語の生い立ちから。

江戸落語、上方落語があるんだったら、東北弁の「東方落語」があってもいいではないかと15年前に発足したとのこと。

見習い、前座、二つ目、真打とランクがあって、今日も見習いさんを付き人に付いてきてもらったそうな。
南天さんは真打になるのに9年かかった。

次に、体の部分を東北弁でなんというか。

額=ヒテコビから始まって、かかと=アグドまで。

「ここはなんといいますか」に会場の年配者が応酬して、大笑い。
中学生には「試験に出るから覚えてね」。

僕も久しぶりに聞いた言葉ばかりで、懐かしかった。

話は、若者とのコミュニケーションの話に移って、年頃の男の子は家族と話をしなくなるよねえ。

東北弁が残っているのは、それだけ人と人とが顔を付き合わせて、会話をしていたから。
テレビやパソコンだけで言葉を聞いていたら、東北弁はなくなる。

このありがたさがわかるのは、40代になって、心が故郷に戻ってくるから。

この言葉で、自分もそうだ、心が故郷や両親に寄り添うようになったのは、たしかに40代だったと得心。

南天さんは遠野市出身だそうで、子どものころには、人に牽かれた牛が道を歩いていたそうな。
僕と同い年くらいかな。もうちょっと下か。

今年は遠野物語の発行100年で、昨日も我が家ではNHKの「続・遠野物語」を見ていたわけですが、河童を本当に見た老人の話を紹介しながらも笑わせる。

しかし、河童というのは赤ちゃんの間引きの風習からきた説もあると。
会場、シーン。

話は、昔のばあちゃんたちの「お茶のみ」のルールに。
近所の友だちとのコミュニケーションや気遣い、孫たちへのおみやげなど、昔を知ってる人たちには、すごく受ける話でした。
大笑いした。

最後には、落語の「転失気(てんしき)」を話して、オチ。

拍手、拍手。

…とこう筋書きを説明しても、おもしろくないことは承知の上で思い出し、書きしてみました。

ライブかせめてビデオじゃないと、おもしろさはわからないよ。
機会をみつけて、ぜひ南天さんのライブを聞いてみてください。

今日、行かない、と言い出した娘も、受験勉強中の息子も連れてくればよかった。

公演が終わってから、感動があまりにも大きくて、妻と何も会話しなくとも泣きそうだったのもわかってたし、家に直接帰る気が起きませんでした。

お茶でも飲むかいと、秋保まで行って、漆器工房やガラス工芸を見て、コーヒーを飲み、ようやく人心地着くことができました。

ところで、大笑いしながらも、涙がぼろぼろこぼれてきたのはなぜか。

実は、自分でもはっきりわからないのです。

ひとつは、自分が子どものときのこと、懐かしい古きよき田舎の生活を思い出したからかなあ。

それとも、東北弁がだんだん聞かれなくなったことは、私たちは大きな歴史上の過ちを冒してしまったのではないかと思って、愕然とさせられたからかしら。

後で聞いたら、妻は、自分が地域やばあちゃんなど家族にとてもたいせつに育てられたのがわかったからと。
ところが、自分の子どもたちは同じように育っていないことに気がついた。
さらに、その陰には、舅姑仕えした母親の辛抱も偲ばれて泣けたと。

僕と同年代の人たちも少しいたけど、どうだったのかしら。

南天さん、感動しました。
どうぞ、東北弁の話をこれからも続けていってください。
ありがとうございました。




職人と経営者が両立するプロフェッショナル、料理人・神田裕行

ほんとうのプロフェッショナルとは、こういう人の事をいうのか。
料理人・神田裕行さん。

1963年、徳島市生まれ。高校卒業後に大阪で板前修業。

仕事を終えて駆け込む銭湯は、同年代の同業者であふれていた。洗い場に並んだイガグリ頭を見て考える。さて、この中で一番になるにはどうしたらいいか。まず浮かんだのは高校時代、ロックバンドのボーカルとしてなじんだ英語だった。

片言でも外国語ができる板前はまだ珍しかった。そのうち、神田はイケるらしいという話が広まり、外国人の客が来ると板場から表に呼ばれるようになった。


数年後に、なじみ客のツテで、パリで新しい和食の店ができるから行ってみないかという話。

86年に渡仏し、日本料理店を任されるが、「何でもできると思っていたのに、何もできないと知った」ため、91年に帰国。

故郷・徳島市のの名店「青柳」に入社し、調理師学校の立ち上げ、東京進出や海外での和食実演で経営者を支えます。

98年、青柳が出した「赤坂basara」の料理長に。

04年に青柳を退社し、東京・元麻布に「かんだ」を開業する。

07年創刊のミシュラン東京版で三つ星を獲得、以来3年続けて星を保っている。

一見(いちげん)の客であれば、店主の神田裕行(47)も最初の一杯に注目している。何をどんなペースで飲むか。ビールをグイと空ければイケる口とみて、料理はしばらく酒肴(しゅこう)中心の組み立てとなる。

カウンター割烹(かっぽう)の命は、そうしたライブ感覚だという。日本酒を楽しむ客と、ワインで通す客に同じ料理は出せない。ワインでも白の飲みっぷりに勢いがあれば、いずれ赤に移るだろうと、2品後に肉料理を用意させる。即興が延々と続く。

包丁を握りながら客をあしらい、従業員を統率する。

逢瀬(おうせ)には明るすぎると評される店内に、ピリピリした空気はない。なにしろ、店主が背中に団扇(うちわ)を差している。炭火をおこすためというのは表向きで、郷里の阿波踊りをこよなく愛するお祭り男なのだ。

無論、さりげなく会話を聞いている風だから油断できない。関心は言葉遣いらしい。その男女は夫婦か恋人か友達か、はたまた上司と部下か。それによって、例えばミニしゃぶの鍋を一つにするかどうかを決める。カウンターが8席なのは、10席では端まで目配りできないからだという。

旬の松茸(まつたけ)を焼いて、握り寿司にして出してきた。「温かいうちに」と続けて2かん。食べ終わると「一つ目が韓国、次が岩手産。わかりました?」。そんなことをする。

かと思えば、調理場から出てきた焼き魚のノドグロをひと目で却下、店主も一瞬、のれんの向こうに消えた。身の反り加減や色から、焼きが30〜60秒浅いとみたそうだ。ライブの主は、己の手元に集中しながら客席と楽屋に目を配る。


職人と経営者が両立するプロ中のプロですね。
こんな人物に私もなりたいものですが。

突破する力 神田裕行(朝日新聞グローブ)から。


本当にマジックができないんじゃないと思わせてしまうマギー司郎のすごみ

気仙沼市出身のマギー審司さんですが、マジックで使う道具を百円ショップ、コンビニ、青果店などで探すそうです。

重視するのは、「お客さんとの距離感」。

お客さんにとって身近なもので不思議なことが起きるから喜んでもらえるるはず、と。

こうした姿勢を教えたのは、師匠であるマギー司郎さん。

高度な技術を習得することは大切だが、技術ばかりに意識が行って、お客さんを置き去りにしてしまうことはないだろうか。

司郎さんが弟子に技術を教えることはまずなくて、世間話に終始する。

あるとき、審司さんは司郎さんに手の中のコインを消すマジックを見てもらった。

動きを美しく見せるために小指から開いていくと、「普通に開けばいいんじゃないの」と言われたそうな。

「この人は本当にマジックができないんじゃないの、とすら思わせてしまう」。
それが師匠のすごさなんだと審司さんは語ります。

司郎さんのマジックを見て、自分にもできると誤解する人がたくさんいました。
私もその一人です。

「お客さんは、どんなマジックを見たかは忘れても、マギー司郎を見たことは忘れない。それはお客さんに技術ではなくて、人間としての魅力で向き合っているからだと思うんです。僕が考える超一流のマジシャン。超えられないカベ」と審司さん。

前にマジックの講座に参加してやってみたけど、訓練をしないとうまくいかないことがよくわかりました。

いまでもたまに飲み会でやるけど。

   →マギー司郎(Wikipedia)

   →マギー審司(Wikipedia)




映画「レオニー」の女性監督、イサム・ノグチの母の勇気に通じる生き方

あれ、先週から公開始まってたんだ。
映画「レオニー」。

20世紀初頭のニューヨーク。
レオニー・ギルモアは、詩人・野口米次郎と恋に落ちる。

レオニーは子どもを身ごもったが、米次郎は帰国。

日露戦争の後、米国では次第に排日機運が高まり、レオニーは幼い息子を連れて日本へ。
だが、米次郎には妻がいた。

レオニーは英語教師をしながら、日本で子どもを育てる...

子どもは、後の世界的な彫刻家、プロダクト・デザイナーのイサム・ノグチとなります。

   →映画「レオニー」公式サイト

   →イサム・ノグチ(Wikipedia)

人生の本当の喜びは、困難を乗り越えた先にこそある――
「レオニー」ではなく、監督の松井久子さんの半生が朝日新聞2010.11.03に載っていました。

少女のころの理想は、「子だくさんの商店のおかみさん」。
大学を出てすぐに同級生と結婚し、27歳で息子を産んだ。

しかし、生活のために始めたフリーライターの仕事が順調になればなるほど、物書きを目指す夫とすれ違いが増える。

泣いている松井さんの背をさすりながら3歳の息子が言った。
「僕がいるから大丈夫だよ」。
5歳の時、離婚の話し合いを終えて家を出た松井さんに「お母さん、もう1回がまんしてみない?がまんできたら自信がつくよ」。
もう無理だよと答えると、息子は納得した表情で「そう、わかった」。

33歳で離婚。
取材で知り合った俳優に請われてマネジャーになり、その後、俳優プロダクションを設立。
39歳でテレビ番組の制作会社を立ち上げた。

中学卒業前、息子は留学したいと言い出した。「このままだと人生の先が全部みえてしまう」。

息子の挑戦を支えて、「仕送り地獄」をがんばった。

50歳、さらに転機が訪れる。

45年間連れ添い、晩年は認知症になった妻と、米国人の夫の物語を映画にしようと、3年かけて資金調達に奔定した。

脚本を頼んだ新藤兼人監督に「監督も」とお願いすると、「女性がもっと撮ったほうがいい」と背中を押され、1997年、映画「ユキエ」が誕生する。

5年後には、「折り梅」を製作。

そして、57歳、『イサム・ノグチ―宿命の越境者』(ドウス昌代著)を読み、その潔い生き方に引きつけられた。

「米国人の女性が100年前に日本に渡り、一人で子育てをするのはどれほど困難だったか。自分で人生を切り開いていく彼女の姿を、女性たちに伝えたいと思った」

過去の2作品や松井さんの生き方に共感した女性たちが2005年、支える会「マイレオニー」を結成。

賛同金を募り、会員は3千人を超えた。
製作費13億円を集めるのに6年。
撮影と編集に1年。
脚本は14回、書き直した。
携わったスタッフ400人。

息子がプロデューサーとして、母を支えた。

容易に想像はつきますが、ここに到るまで、けして順風満帆だったわけではありません。

キャスト・スタッフの大部分をアメリカ人クルーで編成した「ユキエ」の撮影で、現場が荒れた様子が書かれていましたが、新しいことにトライするたびに、三歩進んで二歩下がる状態ではなかったか。

津田塾大で開かれた講演会で、女子学生が聞いた「どこから力が出てくるのか?」という質問にこう答えました。

「生きることそのものが仕事。人生そのものがハードな遊び。ちょっと勇気を持てば、結構すごいことができる。そのためにはあきらめないこと、そして途中で投げ出さないこと」

「レオニー」の生き方と松井さんの生き方が重なるようです。

「レオニー」は、アメリカと日本の自然や町並みを描いて、美しい映画のようです。

なんとか時間を工面して、妻といっしょに観たいなあ。
(とりあえず、今日もがんばって、仕事進めるぜ)

   →松井久子(Wikipedia)

   →映画監督 松井久子公式サイト




吉野家の職人の遺伝子は不滅です

朝日新聞2010.10.26のオピニオン欄「耕論」の「逆境をゆく」。
3日目は、吉野家ホールディングス社長の「安部修仁」さん。

この人は、高卒のアルバイトからの叩き上げ。
それで東証一部上場企業社長となったわけで、生き方のすごくかっこいい人として尊敬しています。

すきやや松屋などライバル企業が、牛丼を200円台に値下げする「牛丼戦争」のなか、吉野家は380円で据え置いた。

その結果、昨年3月から売上高の前年割れが毎月続きました。

特に12月以降は前年比15%減に落ち込んだ。

残念ながら、吉野家の一人負け。

去年のお正月、菩提寺に墓参りしたら、壁に掲げた格言が目にとまりました。「小さな苦しみは愚痴を生む。大きな苦しみは知恵を生む」
心に響きましたね。(中略)問題の本質を突き詰めて本当に根を詰めて、うなりながら考えた先に、今の状況からジャンプする発想が出てくるのです。
(中略)表現はよくないですが、「テンパる」とアンテナが敏感に働く。逆に、安泰だと鈍くなるので、あの格言は見逃したかもしれません。

アルバイトから吉野家の杜員になったのが1972年。

1977年からは九州地区本部長を務めたが、1980年には倒産(会社更生法適用)を経験。

出店準備で派遺された米国から呼び戻された80年の会社更生法適用は大きな苦しみでした。急激にして味が落ち、破綻をを招いた。顔を泥水につけられたような経験から、本当にいいもの。悪いものを見極める目が養われたと思います。

その後、セゾングループの出資により再建された同社で、1988年の常務取締役就任を経て、1991年には、当時42歳の若さで代表取締役社長に就任。

学んだのは、一番正しいのはお客さんということです。お客さんの期待に応え、来店頻度を上げるには、質は落とせません。そこが、一番強いよりどころになるのです。
その姿勢は、2001年暮れから牛海綿状脳症で米国産牛肉の輸入が禁止された時も貫きました。他社が米国産以外で牛丼を販売しても、2年半、我慢しました。加盟店の突き上げもありましたが、輸入再開後を考えた。ブランド力に重きを置けば、何でもいいからと牛丼は出せない。新メニューで乗り切りました。

こういう頑固な姿勢が僕は好きなんだ。

いまもあるかどうかわからないけど、昔は、牛丼を時間内に一定品質でどれだけ美しく盛れるか、牛盛りコンテストが社内であった。

ファストフードのなかでは、職人気質の遺伝子が残ってるまれな企業だと思います。

9月から販売した280円の牛鍋丼が好調だそうです。
(私は、いまひとつだったけど。)
売上も前年を上回り始めているそうです。

先日、宮城県古川で紺色の吉野家をみつけて、目を疑ったけれど、そばと牛丼の店の展開を始めたんですね。

   →そば処吉野家

仙台市小鶴にもできた模様。

「人生は勝ち負けじゃない。負けたって言わない人が勝ちなのよ。」
小山内美恵子さんの「3年B組金八先生」から。

がんばれ、吉野家。
がんばれ、安部社長。

吉野家オフィシャルサイト
 
吉野家(Wikipedia)



輪島大士、波乱万丈、肉体派、頭脳派。友達になりたいナンバーワン。

朝日新聞2010.10.26のオピニオン欄「耕論」の「逆境をゆく」。
2日目は「輪島大士」さん。

この人、逆境という言葉は似合わないと思うんだが。

私の人生も波澗万丈で、「普通の人の3倍生きてきた」って感じがするね。中学生から相撲を始めて横綱になり、親方もやったけど、年寄株を担保に借金するという大失敗で、1985年に相撲界を去ることになった。そこで、ジャイアント馬場さんに自分からお願いして、プロレス界入りを決めたんだ。
「横綱までやった男が何でプロレスを」と思う人もいたかもしれないが、私はそういうことはひとつも気にしなかった。

素直な人なんだよねえ。
現役時代は「黄金の左」で力もあったが、大卒ということもあって、頭脳派にみえたんですが。

逆につらかったのは、時折、面と向かって「輪島さん、いま何やってるの」と言われること。「どんな仕事をしているんですか」とか聞けぱいいのに、パカにされているような気になるじゃない。
「ヒマで風来坊やっています」とか、冗談めかして答えていたけど、本当は「色々な仕事をやって。ちゃんと稼いで税金も払って、まっとうに暮らしている。そうあなた自身は、一体給料いくらもらっているんだ」って言い返したかったよ。

言っちゃれ。
そう言ってるやつは、あなたの苦境をのぞき見したいやつなんだよ。

「逆境」という言葉は好きじゃない。みんなこういう時代に踏ん張って生きているんだから。「自分だけが苦しい。逆境だ」なんて思わずに、自分を信じて仕事をすればいいんだよ。人生なんてご飯と一緒。おいしい時もまずい時もあるんだからさ。

ダンディだね、心が。
カッコつけながら、人生を飄々と生きてる感じ。

輪島語録はたくさんあるけど、こちらに満載。
友達になりたい人だ。

   →輪島大士(Wikipedia)




田原俊彦、デビュー30周年、君はいまでも「ビッグ」だよ

朝日新聞2010.10.26のオピニオン欄「耕論」は、「逆境をゆく」と題して、3人のインタビューが載っていました。

オレ、こういうのに弱いんだ。

で、3日連続でご紹介します。
第1日目は「田原俊彦」さん。
確かに今の僕は、ヒット曲もないし、かつてみたいな人気もない。僕自身は今、逆境だとかどん底だとは思っていません。多くの人に見せる場面がないから、ライブハウスとか小さな枠の中でパフォーマンスするしかないだけで、歌もダンスも進化しています。マイケルジャクソン亡き今、歌って踊るステージでは、僕が一番だっていう自信がある。
1994年、長女誕生の際の記者会見で、「何事も隠密にやりたかったけど、僕ぐらいビッグになってしまうと…」と語った、いわゆる“ビッグ発言”が物議を醸して、マスコミから「生意気」などと叩かれた。
1995年度の「an・an」の嫌いな男ランキング1位となり、露出が減ってしまう。
でもさ、いっべん田原俊彦やってごらんよ。どのぐらい楽しいか。そして、どのぐらい大変か。仕事でアイドルという虚像を演じきり、私生活では芸能リポーターに追いかけられる毎日です。そんなことすべてを受け入れて、80年代をトップアイドルとして突っ走った。その自負があったし、ビッグだからビッグと言ったまでです。若かったし、多少の思い上がりみたいなものが、なかったとは言わないけど。
その後33歳で、仕事も私生活も管理されるのを嫌って、事務所から独立。
守ってくれる事務所がないんだから、苦しくなるのは当然でした。
今も1年に1枚、CDを出けている。売れませんが。でも次は必ずヒットすると信じている。信じて続けることが大事なんです。打席に立ち続けることですよ。
今、こんな時代だから、みんな苦しいですよね。でも本当は、その感じ、よく分かんないんです。だって僕、芸能界しか知らないし。だけどね、生きていくのが厳しいのは、どの世界でも一緒だよね。結果が伴わず、逆境やどん底にいると感じているときは、後ろ向きな気持ちになりますよね。でも逃げちゃダメだ。
6歳で父親を亡くし、4人兄弟の貧しい母子家庭で育ったとのこと。

彼が「哀愁でいと」でデビューしたとき、僕は大学生でマージャンを打ちながら、テレビを見ていました。
新しい時代のかっこいいやつが出てきたな、とダンスに鈍い僕にもそう感じられました。
いつかもう一度、歌を大ヒットさせる。そう信じて、僕は打席に立ち続けるつもりです。
やっぱり君はビッグですよ。

時代がめぐって、君のパフォーマンスがお茶の間で見られますように。
応援します。

   →田原俊彦デビュー30周年記念プロジェクト

田原俊彦
フォーミュラレコーディング
¥ 3,858


幸五郎さんに会いたくて

10/30に仙台市荒町商店街で、『あらくら』荒町クラシック三昧が開かれました。

荒町の通りが、東京スカイツリーとほぼ同じ長さということから「荒町634m横長コンサート」とか、「荒町もバッハも400年」とか、まあうまくこじつけて、お寺や協会を会場にコンサートを開き、その間、街を散策してもらおうというもの。

あらくらチラシ

主催者の出雲幸五郎さんから招待状をいただきました。
チケットは同封されているものの、いつものとおり、現地でお金を払えって寸法だな。
よし、行ってこよう。

...と思いつつ、行けずに残念。

幸五郎さんの詩が書かれた手紙が同封されていて、荒町とともに生きてきた幸五郎さんの人生が偲ばれ、心があったかく、また、切なくなりました。
この町で

この町で生れ
この町で恋をし
この町で結はれました
この町で生き
この町で老いました
この町を二人で歩きたい

いずもこうごろう

こうごろうさんの手紙


幸五郎さんに会いたくなってYouTubeにいるかなあと探したら、いらっしゃいました。
ちょっと前の幸五郎さんだな。




狼少年はいつの時代にも必要なんだ

宋文洲さんのメルマガ2010.10.29号から。
「言葉の限界と弊害」。
表現そのままを正確に伝えるためには同じ背景の存在が必要です。地域、環境と文化が異なる場合、「思った通りに相手に伝えきれていないこと、思った通りのことを相手が言っていないこと」を、伝える側も受け取る側もまず理解すべきです。

同様に日本人同士でも決して言葉の意味が統一している訳ではありません。部下や業者になんでも「大至急」という人がいます。最初は皆びっくりして本当に大至急に対応しますが、そのうち段々とその人の発する「大至急」が、普通の日本語の「大至急」と違うと気付き、ドタバタしなくなります。

「顧客満足度調査」が当てにならない理由もここにあります。「満足」と答えても買うとは限りませんし、不満を言いながらずっと買う場合もあります。そもそも人によって満足の意味が異なるのです。下手すると同じことについて同じ人がタイミングと心情によって異なる評価を下すこともよくあります。奥さんと喧嘩し、上司と口論し、ついでにお財布も無くした人に何を聞いても後ろ向きになってしまいます。
お客様のおっしゃることは断片的であって、真実は本人も気づかない奥底に隠れているんだよね。

みんな、あいまいな事象をあいまいな言葉を駆使して話している。
当たり前のように使う言葉が、コミュニケーションの道具としてはまったく不完全。
それでも、わかりあえる(わかりあったつもりになれる)のはまったく不思議なことですね。

それから、こんなコメントも。
狼少年は本当に嘘づきでしょうか。結局狼が来て村人に被害を与えたのではありませんか。ひょっとすると狼少年はいたずらではなく、本当に狼の気配を感じていたかもしれません。気配を感じられない村人が、結果的に被害を受けていない時に「嘘」と、決め付けたかもしれません。被害がないからと安心していて、本当に狼が来た時に無防備でした。

村人が求めた「狼が来た!」の意味は狼が目の前に居た状態であるのに対して狼少年が気配を感じたときに「狼が来た!」と言ったとすると、同じ言葉ですが、中身が違っているのです。
すばらしい喩え!
「狼が来た!」と言い続ける人がいないと、進歩がないんだ。

明日11/12に仙台で下記のような2つのセミナーがあります。
私がリーダーを務めるMISA経営委員会資格取得グループの主催。

まだ席に余裕がありますので、ご関心のある方はぜひご参加ください。
参加費はいずれも無料です。

(1)
■演 題:中小企業におけるPマークの取得のコツ
■日 時:2010年11月12日(金) 13:00〜13:45

(2)
■演 題:儲かるリスクマネジメント・BCPのポイント
■日 時:2010年11月12日(金) 14:00〜14:45

■場 所:アエル6F セミナールーム(1)
     (仙台市青葉区中央1-3-1)

詳しくは、東北ITソリューション2010をご覧ください。


フィンランド語「Keep Peace!」で乾杯

市民向けセミナー「フィンランドに学ぶ」(11/9仙台)に行ってまいりました。

男女収入格差の減少、フィンランドに学べセミナー(仙台)(おとこざわ・とおるの「めしのタネ」)

講師は、元フィンランド社会保健大臣の妻(バップ・タイパレさん)、人権政治家の夫(イルッカ・タイパレさん)のご夫妻で、広島で行われるノーベル平和賞がらみのシンポジウムに参加するために来日され、その前に仙台においでいただいたとのこと。

「フィンランドで初めて男女平等を体現した夫婦(笑)」(夫)というだけあって、とても人間的に魅力のある人物に見えました。

示唆に富むコメントがたくさんあったのですが、今日は時間がないので、それはまた後日。

夫・イルッカさんの講話の最後が気に入ったので、引用します。
スピーチは英語です(通訳つき)。
フィンランド語で乾杯は「Kippis!」と言いますが、私はこれを「Keep Peace!」と言い換えます。「平和を守りましょう」(ここだけ日本語)ってね。
フィンランドの人たちと乾杯するときに「キッパイ!」という造語で乾杯したのを思い出します。
「乾杯」って、どこの国の言葉でもいいよね。

今晩は、超早めの忘年会。
「Kippis!」してきましょう!

下記は、イルッカさんの著書。
最初、フィンランド語で出版されたのに人気がなく、海外の人が翻訳をせがんで、今では16ヵ国語で出版されてるベストセラー。


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